風呂場は新宿駅である

風呂に入るのがとにかく苦手である。毎日入ったほうがいいのは分かっているのだ。やっぱり頭がむずむずするし、人と話すのにも「風呂入ってないって気づかれないかな…」と気後れしてしまう。

それでも、1人暮らしを始めてから風呂に対する億劫さが顕著になっている。自分のために湯を沸かさなくなり、「冷めるのではいらなきゃ」というスイッチが消失したからだ。

現在はユニットバスなので用を足すついでに何とか入ろうとしているのだが、最近はトイレに行くのも尿意を感じてから1時間くらいかかってしまうので「風呂は明日でいいか」となりがちなのである。

なんでトイレに行くのにもそんなに時間をかけているのかというと、「トイレに行くからには風呂に入らなければならない」「風呂に入るには着替えを用意しなければならない」「用意した後には脱いで洗濯して体を濡らして洗って拭いて着て乾かして…」とその後の工程を延々と考え続けて想像疲れしてしまうのだ。

からだはいまだこたつの中なのに、精神は既に風呂から上がってハンドクリームを塗る面倒くささに怯えているのである。想像力が豊かすぎだ。 例えるなら中央線に乗って、荻窪辺りから新宿乗り換えを恐れているようなものである。

確かに新宿乗り換えは危険だ。路線が多いうえに駅自体も広く、不用意に踏み込めば地下で目的地を見失いそのまま人生を終える可能性がある。常に多くの人がいるのにだれも手を差し伸べてはくれないから、一人で冷たいコンクリートに横たわって外国人旅行客の記念写真の背景になることだろう。

だからといって荻窪からそんなことを考えてもしょうがない。乗り換えなんて突き詰めれば階段を上ったり下りたりちょっと歩いたりするだけだ。

ましてやワンルームにおける風呂への移動なんて3歩くらいだし、服を脱いでから着るまでの工程も、シャワーで済ませれば10分程度だ。中央線から埼京線への乗り換え程度の時間しかかからず、頭皮のむずむずから解放され、文明社会への参加権が回復するのだ。こんなうまい話はない。

あえて問題点を挙げるとすれば、電車の乗り換えは新宿駅に到着してしまえば半ば自動的にスタートラインに立てるが、風呂はそうもいかないということである。自分が立ち上がらなければずっと荻窪だ。中野にさえたどり着かない。西口のガールズバーのやる気のない勧誘から離れられない。

あるいは、新宿についてもなんとなく乗り過ごしてしまうといったほうが近いかもしれない。周囲の勤め人がわらわらと乗降しているのをぼんやりと眺めている。このまま乗り続けていてもけっして大宮にたどり着くことはないのに、動く気になれない。

気が付けばもう御茶ノ水まで来てしまった。乗客に流されるままに降りて、なんとなく駅の外へ出てみる。そこには地下通路も階段も新南口も中央西口もない、ごく普通の交差点と神田川だけが広がっている。予備校へ向かうチェックシャツの浪人生や募金を募る日焼けした青年などが忙しそうに歩いている。彼らも頭をむずむずさせているのだろうか。